恋人との待ち合わせ時間。
20分待っても相手は来ない。
あなたならどうしますか?
おそらく、ケータイをとりだすのでは?
いや、とっくに握りしめているかもしれない。
あるいは待ち合わせ時間に20分ほど遅れそう。
あなたならどうしますか?
やはり、ケータイを操作するのだと思う。
いまとなっては、なかった時代が信じられないくらいにケータイが生活にとけ込んで久しい。 それ以前では、待ち合わせ時間との空白の20分は「ひたすら待つ」か「あきらめて帰る」以外に、さしたる手段はなかったのだ。
どちらも心理的にきついものだ。
待つほうも、それから待たせるほうも。
ケータイの普及はその後のライフスタイルを変えていったし、男女の恋愛スタイルもずいぶん変わった。 それがあまりにもあたり前になったので、ケータイがなかったころはどうしてたっけ?と思い返さずにはいられない。
ケータイが普及し始めてはや15年。 こうなるともう、そもそもケータイ以前の思い出がない世代だって少なくない。
たとえば、ぼくがはじめて恋をしたのが15のとき。
そして、はじめてケータイを手にしたのが31のとき。
夜中に突然、好きな人へ想いを伝えたいと思ったところで、その手段を持たなかった。 電話をかければ彼女の親が出るかもしれないし、メールなど望むべくもなかった。
ただ月夜を見上げ、同じ月が照らしているはずの彼女の部屋をそっと想うしかなかったのだ。 「星に願いを」「月に願いを」である。
前述の「待ち合わせ」についても、ずいぶんすれ違いがあった。 それでダメになった恋もあれば、同時に愛を深めることもできた。 自分がいかに相手を愛おしく想っているか、自覚できる時間がそこにあった。
多感な時期を、そのように過ごしてきた経験は尊い。
ケータイは恋愛ツールとしてありがたい存在である。
出会いを増やし、機会を拡大生産することができる。 少なくとも「すれ違い」を減らし、想うしかない時間を減らしてくれる。
けれども「ケータイなし恋愛」15年のベテランから言わせてもらえれば、「物理的なつながりは精神的なつながりを強くさせない」ということだ。
「なんですぐに返事をくれなかったんだ」
そう恋人をなじるひとは少なくない。 ともすれば恋人たちは、互いの愛を相手のレスポンスで測ってしまいがちだ。 容易に拘束しあう手段を与えてしまう。 そのことで相手に疲れ、相手を疲れさせてしまう。 結果、倦怠を催させ、恋愛の賞味期限を短くすることもある。
結局のところ、便利なツールは、人に深みのようなものを残してはくれないのだろう。
恋愛ならばそこに「ため」が生まれない。 「ため」は耐性を育て、恋愛力を強くしたはずなのに。
そもそも愛とは本来「相手を許す」ことではなかったか?
もちろんいまさら、ケータイがなかった時代が必ずしもよかったとは思わない。
だけどケータイによって生み出された時間より、失われた時間のほうが大きいのではないか?
などと思ってみる。
ケータイのなかった時代もあんがい悪くなかった、と。
いまでは得られない自由だって、そこにはあったのだ。
ケータイやネットはぼくたちのライフスタイルを一変させました。いい意味でも悪い意味でも。キレイな花にはトゲがある、便利なものにもトゲがある。それを見定めるのが大人の分別なのかもしんないですね
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