これまであまり語ってこなかったけれど、ぼくは過去に会社をひとつ、つぶしている。 香港で運営していた会社の支社を東京に作り、それをクローズしたのだ。
これに伴い、多くの経済的な犠牲があり、少なからず挫折感があった。 あのときぼくは、この十字架を一生背負うのだろうなと思った。
妻が出て行き、勤めていた会社の上司ともしっくりいかず、長年住み慣れたドイツに踏ん切りをつけるためにも、あえて希望に満ちた面持ちで香港に渡ったのが2000年の秋。
ある会社の閉鎖は、その成れの果てだった。
ひとつの会社が存続してよいかどうかは、社会が決めているのだとぼくは思う。 「自分の金で作った会社だから何をやってもいい」わけでは、ない。
会社の存在を証明するものは「儲け」ではなく、「幸せ」である。
たとえ会社が儲かっていても、それが社会に幸せをもたらさないのであれば、お客さまや従業員に幸せをもたらさないのであれば、その会社に存在する価値はない。 速やかに消えるべきだと、ぼくは思う。
どこかの新規事業はあいかわらず「戦略」が好きだ。
なまじ頭がいい(と本人たちは思っている)のも、ここでは災いとなる。 成功体験はアダとなる。 「なまじ頭がいい」人たちは、成功の理由を自分たちの履歴の中に探し、失敗の理由を他者や環境に求めるからだ。
どこにもたどりつかず、たださまよう群れ。
その群れは、果実を求めて森をさまよう。
芽を育てる能力や自信のない者たちは、他人の育てた果実をかすめるほかにすることがないからだ。
「この会社はわたしたちに幸せをもたらさない」
そうお客さまや従業員が思えば、その会社の存在は意味がない。 そうならないよう経営者は「あり姿」を見直すまでだ。 利益はいつだって、お客さまの幸せのコストであるはずだからだ。
株主たちはうつろいやすい。 そして記憶喪失でもある。 自分たちがなぜその会社に投資したのか忘れてしまったり、当事者がいなくなっていたりする。
そして残った者たちでこう思うのだ。
「この会社はわたしたちに幸せをもたらさない」ぞと。
まさに「主客転倒」である。
子が親の私物でないように、会社は株主の私物ではない。
けれども子は悩む。 どうしたら親を喜ばせるのか、と。
親に愛されない子が、ゆえに親を喜ばせようと、悩む。
残念なのはそのどちらもが、社会のほうを向いていないことだ。
身をもって、その気持ちはわかる。
ひとつめは、ぼくの両親が別れたとき
ふたつめは、自分の会社を閉じたとき
ひとつめは、被害者として
ふたつめは、加害者として
どこかで見た光景
今ならまだ間にあうかものかもしれないが。
「優しさ」のウラは「厳しさ」。では「甘さ」のウラは? こたえは「冷厳さ」です。甘さを優しさと誤解していると、反転したときにとんでもないしっぺ返しがくるものです。仕事も、そして人の愛も。
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