再び東京に住み始めて数年間、
あらためて思うのは日本の平和さである。
そりゃまあ、新聞やテレビを観ていればさまざまな犯罪のニュースを目にはする。 眉間に皺を寄せたニュースキャスターが「深刻な状況です」と切々と訴える姿を見ることはある。
でもあえていうならば、ぼく自身の周りで犯罪がおこなわれていたことは、まずない。
それどころか、街中で「喧嘩(言い争い程度)」を見かけたことすら、ない。 あっても年に1〜2回程度。 たいていは酔っぱらいであり、または路上生活者であった。
1千2百万人がひしめきあって暮らす東京、しかも毎日の通勤電車では「恋人同士だってここまでは・・」と思うほど他人とくっつきあっている。 それでも他人を罵倒する人はほとんどいないのである。 満員電車内で足を踏まれて思わず「すいません」と言っちゃうことはあっても、「何すんだ、ばかやろう!」とは言わないのがわりと一般的だ。
ヘッドフォンからシャカシャカ音が漏れていても、老人に席を譲らず寝たふりをしている学生がいても、巨乳グラビアヌードが印刷されたスポーツ新聞を広げるオジサンがいても、子供が座席で騒いでいようがものを食べていようが、誰も滅多に注意がされないのも最近の風潮である。
それがいったん、ネットとなればとたんに変わる。
たとえば「2ちゃんねる」のような書き込みサイト。 あるいは失言や失態をしてしまった人のブログ。 あるはあるわの、罵詈雑言のオンパレード。 「こんな醜い言いまわしが日本語にあったんだ・・」と感心するほどである。
相手を攻めることばばかりではない。 「〜してはいけませんよ」とか「人間として最低です」などといった「責める」ことばも多い。 むしろこっちのほうが多い。
この「イラ写」にも、こうしたクレームっぽいコメントや、お叱りメールをいただくこともある。 印刷すれば5ページくらいあるようなメールで蕩々と論を説かれるひともいる。 ひととおりぼくの人生の何がダメなのかを指摘し、どうすれば幸せになるか教えてくれるひともいる。 ぼくの未熟さを責め、世のありようを切々と訴えるひともいる。 もちろん、会ったこともなければ何をしている人なのかもわからないひと、である。
内容はどうあれ、コメントやメールをいただくのはうれしいものです。 このブログの存在が、読者をしてなにかしら思うきっかけになれたことは、ぼくの望むところであるからだ。
それは別にして思うのは、ネットで罵詈雑言を書き込んだり、品行方正のありようを書く人たちは、リアルでもはたしてそうなのだろうか?ということだ。
ネットで「ばかやろう!」と書いてまわるひとは、実生活でもやはり「ばかやろう!」と言ってまわるのだろうか? ネットで「まわりの迷惑を考えろ!」と書く人は、満員電車の中でやはり他人に注意しているのだろうか?
中にはそんなひともいるかもしれない。 でも大半はそうでないのだろう。 それがぼく自身のリアルな生活実感であり、ネットでの疑似体験である。
つくづく悲しいのは日本人が宿命的に持つ「いじめ」の体質である。 「まわりと同じ」でいたいと願い、相手にも「まわりと同じ」でいさせたいと願う。 それがこの体質の根幹にある。
自分ひとりでは「席を譲らない若者ひとりに注意すら出来ない」人が、ネットではよってたかって不正を責め立てる人たちに混じって「そんなことをしてはだめです」と発言する。
「いじめ体質」に加えて「見えないところから相手を攻撃する性質」。 これらをまざまざと見せつけられる思いである。 ネット社会の出現で、あらためて感じられるコワさだ。
リアルではそうでもないのに、ネットではとたんに善い人になったり良い人になることを『ネットいい人』という。 人は誰しもホンネも言うがタテマエもいう。 ただ『ネットいい人』は、ネットとリアルでそれを使い分けてしまう術を知り、そこに居心地のよさを感じてしまうのだ。
ぼくがプロフィール部分に「リアル写真」を載せたり、公私にわたってぼくを知る人にこのブログの存在を隠していないのは、『ネットいい人』に陥らないための自己抑止でもある。 リアルとネットにギャップを作りたくないからだ。
とはいえ『ネットいい人』はなかなか蜜の味である。
でもそのようなブロガーや書き込みにぼくは、本能的にちょっと身構えてしまうのだ。
ネットもリアルもぱっとしなくてもいいじゃないか、と自分を励ます毎日です。そしてぱっとしない人生に乾杯!どうぞ押してやってくださいブログランキング
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