移転したばかりの銀座のオフィス。 そこから丸の内へと向かうブルーバード沿いにあるレストランでひとりランチをとる。
こんなふうにひとりでいると、周囲の会話につい気をとられる。 話し相手もなく、食べる以外ほかにすることもないから、脳もずいぶんヒマなのだろう。
「あーもう、どっかにいいオトコいないかなあ・・」
例によって朝の小鳥のさえずりのようなOLさんたちの会話だ。 いたるところで1万回以上聞いたセリフでもある。
また、読者の皆さんから、たまに「いいオトコの見つけ方」について相談メールがとどくことがある。 残念なことに、あいかわらず解決策などもたないぼくである。 「がんばってくださいね」と返答するのが精一杯だ。
でもその度にぼくは思う。
申しわけないけど、最初からいいオトコなどめったにいないものだ。 だから、むしろいいオトコに育てるつもりでいて欲しいです。 いいオトコらしき人物に出会ったら、そいつはきっと「他の女性」に育てられたはず。 それからいいオトコを育てられた女性は、まちがいなく「いい女」だと思う。
ぼくのまわりのオトコたちはたいてい結婚している。
ぼくと同年輩で独身男性がいるとすれば、たいていバツイチだ。
「再婚ならしたよ、仕事とだけど」 なんてことをいうヤツらだ。
世のぱっとしないオトコたちは、成長が止まってしまったオトコたちだ。 妻の不満に気づかなかったオトコたちがそうであったように
オトコは悪い生き物だ。 けれども、悪いのはオトコばかりでもないだろう。 オトコの成長を止めてしまった女性も同罪である。
たとえば相手をほめなくなった女性。 それは、はからずも自分が不幸であることを強く意識していたりもする。 自分のために彼がしてきてくれた努力や我慢を相対できず、自分がしてあげたことばかりを強調し、不遇を嘆いたりしがちである。
「ああ、自分はなんて不幸なのだろう?」と。
でも、そう思っちゃったほうこそ不幸なんである。
俗にいう「ワタシは不幸病」である。
「ワタシは不幸病」は、被害者妄想が強めのひとで、理想高く生きている人がかかりやすい病気だ。 無理難題で相手を追いつめて、その試練を乗り越えられなければ相手を信頼しないタイプの人に多い。 そしてようやくその難題を乗り越えてきた相手に、こんどはありえないほどの期待を寄せ、とことん受け入れようとする極端な面がある。
実はこのことが不幸への陥穽(かんせい)なのだ。
「相手を育てる」というのは「相手を変える」のとは違う。
「ワタシは不幸病」のひとたちは、変えようとして変わらない相手を嘆き、相手を必要以上に攻撃したり、あるいはみずから無力感に陥没する。
ここはひとつ、「ほめて育て」てみてはどうだろう?
子供の教育と同じ、相手を成長させたいのなら要求するだけでなく「ほめる」ことである。
たとえば、ちょっとしたことでも「優しいのね」と言う。 するとオトコはもっと優しくしてくれるはずだ。 オトコはもともと優しいのだ。 そして女性から「優しいのね」と言われれば、成長モードにスイッチが入るのである。
やって欲しいことをあらかじめ仕掛けておいて、相手にそれが出来たらすかさず褒める。 ペットのトイレのしつけとでも思えばいい。
「いいオトコね、あなたって」
そう言われると、いいオトコになろうと努力してしまうのが男の性。 単純といわれればそれまでだけど、案外このことは深い。
そのぶんちゃんと、あなたもいいオンナになっているはず。
相手を成長させることは、自分もまた成長することである。
こんなふうに、日本でいいオトコといいオンナが増える
こうなるともう、社会貢献の一種である。
がんばってくださいね。
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