自分の握るハンドルで、はじめてドイツのアウトバーンを走ったのはぼくがまだ22歳のとき。 アウトバーン3号線だった。
デュッセルドルフからフランクフルトまでの、230 kmの道のり。 広い3車線でアクセルを踏み込み時速180km/hを出したときの高揚感は、いまでもちょっと忘れられない。 助手席に座っていた先輩が、「これを作ったのはあのナチスだ、しかも失業対策でね」と話してくれたのはそんなときだった。
高速道路、ナチス、失業対策 ・・・
フツーなら、同じ文節で並べられにくい単語だ。
ゆえにぼくは、先輩の言葉に強い印象を持つのだった。
1933年、ドイツ。
4年前の1929年にやはりアメリカを発端とした大恐慌、しかしこれによる被害が最も大きかったのはドイツだった。 GNPは前年比35%もダウンし、失業者は実に560万人に増大した。 就労人口の3分の1は失業していたというから、これはもうすごい数字である。 ヒトラーが首相に選ばれたときのドイツは、こんなふうに最悪の状態だったのだ。
ヒトラー政権は発足後2日目には「第一次4カ年計画」を打ち出し、さっそく暖めていた経済政策を施行した。 内容をひとことでいえば「社会の底辺の人々の生活を安定させること」であった。 「チェンジ」を合い言葉に貧困層を救うと宣言したのはオバマ大統領だけど、75年前のヒトラーも同じ。「ドイツは変わる」をスローガンに、どん底のドイツを変えるべく奔走した。
そしてほんとうに変えてしまった。
どうやって?
失業者を減らし、なくしていったのだ。
就任演説でヒトラーは国民にこう語りかける。
「いまから4年ほど待って欲しい。4年で失業問題を解決し、ドイツ経済を立て直す」
果たして4年後、ドイツの失業者は92万人まで減った。さらに2年後には12万人まで減った。 約束は履行されたのだ。
当時のドイツ人はヒトラーにどれほど感謝しただろうか。 この事実を知れば、後世の教科書が伝える「ドイツ国民は騙されてヒトラーを崇拝していた」というのは、なんだかうさん臭く思えてくる。
なお、2009年現在のドイツの失業者は340万人。 21世紀の後知恵を持ってしても、ヒトラーを超えていないじゃないか、と思う。
ヒトラーは、なにも魔法を使ったわけではない。 「公共事業をおこなって景気を刺激する」というオーソドックスな手法を用いただけだ。 それならバブル後の日本でもやったし(500兆円もかけて)、世界中のあちこちでやっている。 いずれも成功したとは言いがたいとはいえ。
日本の公共事業は、その費用の大半がゼネコンだったり訳の分からない団体に支払われるが、ナチスがそれとは違うのは、材料費の他はほとんど労働者に支払われたということだ。 その比率46%、おどろくべき労働分配率。 日本の官僚ならあり得ない!と一蹴し、議論もしないことだろう。
その公共事業のハイライトが、かのアウトバーン建設だったのだ。
当時ドイツの年間自家用車売り上げ台数はたったの4万台。 なにしろ1933年だものな、と思う。 世界で走っていたのはいわゆるクラッシックカーである。 そんなときにヒトラーは総延長16,000 km、片道3車線のりっぱな高速道路の計画を発表したのだ。 どんだけ先読みしてたんだよ! と。 スケールがまったく違うのだ。
アウトバーン建設の予算はまず就労者の数と賃金を決め、そこから逆算していった。 従事者の採用は家族持ちの中高年男性を優先させた。 そのほうが社会が安定するからだ。 労働者からピンハネしようとする業者は、ナチスが作った組合に徹底的に排除された。 この組合は道路敷設予定地買収でひと儲けしようとする不動産業者にも容赦なかった。 さらにナチスは官僚の天下りを禁止した。 日本の現状を思えば、ため息がでるほど鮮やかではないか。
こうして労働者が安心して生活できる基盤を公共事業で作り上げていった。 労働者にはきちんと休暇を与え、一定のバカンスも与えた。 ようやく仕事にありつきひと安心、そのうえ休暇とくれば、もらった賃金は消費にまわる。 自家用車の販売台数は4年後には3倍になり、生活消費材がどんどん売れた。 経済学でいうところの「乗数効果」が遺憾なく発揮されたのだろう。 ときに経済政策は市場経済に任せず、国が音頭をとることも大事だということだ。
△ 1929年を100とした、経済規模トレンドチャート。ヒトラー政権になって明らかにドイツ経済は回復し、未曾有の繁栄をもたらせた。L.O.N資料をもとになおきんが作成
ナチスとは、”Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei (国家社会主義ドイツ労働党)の略。 やっていたことはまさにその名のとおりのことだった。
さすがに計画通りとはいかないまでも、1945年の終戦時には4,000 kmまで建設が終了していたアウトバーン(現在の総延長12,000 km)。 ちなみに日本の高速道路は1963年に着工し、現在までに9000 km。 国土面積は日本よりやや小さいドイツだけど、長さは日本の1.3倍。 しかも無料である。 サービスエリアや周辺事業も含め、その基礎のほとんどはナチス時代に出来上がっていた。
△ 「国民でも買えるクルマを」をめざしフォルクスワーゲン(国民車の意味)社は創られた。写真はVWビートル1933年モデル
ナチス・ドイツといえば、ヒトラーをして第二次大戦を勃発し、アウシュビッツ収容所などでユダヤ人を600万人も大量虐殺した悪漢として世界中で語り伝えられている。
けれどもナチスには、ヒトラーには功績もある。
そこはちゃんと認めるのがフェアだろう。
とはいえ、ユダヤ人をこの世から一掃しようとする政策を持ち、これを国を挙げて実行したことは、たとえ理由がどうあれ許されないことだ。 ナチスドイツがやったのは民族浄化である。 これを手助けしたのはドイツ国民であり、(知らぬそぶりをしているけれど)ヨーロッパ各国の国民である。 ユダヤ人に恨みやねたみを持っていたのはお互いさまだったのだ。
つまるところ、民族浄化の報復はやはり民族浄化である。
ユダヤ人絶滅を支持したドイツ人の報復はドイツ人絶滅をして他にない。 こんなにも民族浄化の罪は重いのだ。 戦後誕生したユダヤ人の国イスラエルが、ドイツ人全員を戦犯として指定手配し、いかなる処罰を与えようとも、原則的には止めることはできないのが世のオキテだ。
こうなってはまずい。 それは負けたドイツを占領していた連合軍、米英仏英とソ連の5カ国にとっても望むところではない。
そこで戦後のドイツ人は,自分たちの身代わりになるものを探した。
それがナチスであり、ヒトラーであったのだ。
「戦争を始めたのも、ユダヤ人を抹殺しようとしたのもオレたちじゃない。ヤツらが勝手にしたことだ」と。 戦後ドイツの復興をなんとか自国の利益につなげたいとする各国も、これを支持した。
アウトバーンの例をみてもわかるように、戦前のナチスがおこなった一連の社会政策や社会基盤の成功は、戦後も絶えず引き継がれている。 けれども、あえてナチスにはスケープゴートになってもらわなくてはいけない現実*1には、ある種のせつなさが漂う。
戦後のドイツ人が生き延びるには、そうしないわけにはいかなかったのだ。
それは同じ敗戦国であり、史実を歪曲してまで戦前の祖国を悪く教えるよう国民に洗脳教育をさせた戦後民主主義の日本とどこか似ている。 GHQと一緒になってA.B.C戦犯をつるし上げ、戦争責任者として責めつづける日本人と。 「戦後はいい人たちとして生まれ変わった」 そんなファンタジーをドイツ人と日本人は共有している。 バカみたいだけど。
1991年のうららかな春のある日、統一したばかりのベルリンを走るタクシーの中で、ぼくを日本人と認めた運転手が言い放ったセリフが忘れられない。
「おれたちはユダヤを殺した、あんたたちは中国人を殺した。 それで世界に迷惑をかけたか?」
あいかわらず人類は歴史から何も学ばない。
自分の都合に合わせてそれを利用したり、利用しなかったりするだけだ。
△ アンネフランクもホロコーストの悲劇の象徴的存在。 しかし彼女の筆跡と「アンネの日記」の筆跡がが全く違うという指摘もある。
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