南国フィリピン、セブ島。
そこにぼくは6ヶ月ほど暮らしていた。
旅行ではなく仕事。 まだ駆け出しだったということもあり、アパートやホテルではなく、現地社長(スペイン系フィリピン人)の邸宅に下宿していた。
駐在中、現地で内戦が勃発してしまい、政府軍と反政府ゲリラ群がフィリピン全土でドンパチしていたのだ。 ぼくにとって機関銃の音を聞いたのはそのときが初めてだった。
日本の本社や残した家族はそれなりに心配しているのだけれど、なにしろ空港がゲリラ群に占拠されているから帰るに帰れない。 行動も制限され、仕事も朝晩テレックスで報告業務程度。 あとは英語のトレーニングとうそぶいてオフィスの女の子をからかっていたり、ワープロをいじりながら時間をつぶしていた。 戦争中とはいえ戦闘はわりとのんびりしていて、戦闘予定地はあらかじめどちらかの軍が教えてくれていた。そこさえ避けていれば、人々はわりと普通に暮らせていた。 屋台が出ていたし、店先でヒマな男たちがカード遊びに興じていた。
近くには日本のヤクザも住んでいた。 たまに彼はぼくをマンゴーアベニューのカラオケパブに連れて行ってくれた。 彼もまた、暇を持て余していたのだ。 ある日、そのヤクザのなじみの子とデートしたことがバレて、逆上した彼に殺されそうになったことがある。 あとで「ジョークやがな」いわれたが、正直いって戦争よりこっちのほうがよっぽどコワかった。
下宿していた邸宅は、メイドが2人住み込んでいた。
二階へと続く階段の下に不思議な形のドアがついていて、その内側が彼女たちの住処となっているのだ。 その部屋はとても狭く、居心地が悪そうにみえた。 ベッドはなく、代わりに薄いマットが畳まれていた。
ぼくは彼女たちがとても不憫に思え、ぼくが使っている部屋を使うよう話してみた。 二人のうちひとりは英語を解したが、「そんなことしたらマスターに殺される」と真顔で言う。 いいんだよ、とぼくはたしなめ、ぼくなら庭のハンモックで寝るからと言った。 二人はぼくの提案をかたくなに拒絶し続け、しまいにはぼくとしゃべることすら避けてしまうのだ。
あとで、ぼくがしたことは実はとんでもないことなのだと、社長からしかられた。 「この国にはこの国の秩序がある」 のだと。
たとえ彼女たちよりもずっと年下で、彼女たちよりも働いていなくても、ぼくは彼女たちよりもずっといい給料をもらい、彼女たちよりもずっといいベッドで毎晩寝ている。
それでいいのか?と、当時のぼくは合点がいかない。
生まれる場所と生んだ親を選べなかったのはお互いさまじゃないか。 ぼくがフィリピンで生まれ、彼女たちが日本で生まれる可能性だってあったのだ。
それから欧州に渡って十数年経ったあと、こんどは香港に移り住むことになった。 そこにはさらに大勢のメイドたちがいて、現地の日本人は彼女たち(たまに男性もいる)のことを ”アマさん” と呼んでいた。
香港には共稼ぎ夫婦が多い。 それは子供がいても変わらない。
子供の面倒や家事のほとんどは、このアマさんが行う。 多くはフィリピンからの出稼ぎ、ほかにインドネシアやネパールから来た人々も多い。 理由は経済合理性。 専業主婦をするより、メイドを雇って、自分は外で働いたほうがより贅沢な生活ができるからだ。
アマさんの給料は住み込みでも5000HKドル(7万円)が相場(2001年当時)。 対して香港人主婦が普通に働けば、少なくとも倍は稼げる。 スキルがあれば4倍以上稼げるだろう。
ぼくも香港では、通いのアマさんを雇っていた。
彼女は毎週土曜日にぼくのアパートにやってきて、掃除や洗濯、アイロンがけや植物の世話などをしてくれていた。 ぼくがセブ島に住んでいたことを喜んでくれ、フィリピン料理をこしらえてくれた。 彼女はとても働き者で、20歳になる息子をフィリピンに残す母親でもあった。
「たぶんあなたとは気が合うはずよ」 ある日息子の写真を見せながら彼女は微笑む。「だって聴いている音楽の趣味がとても似てるもの」
そんなときぼくは彼女を母親のように思うのだ。 こうするしか仕事のない祖国を、彼女に代わって少しだけ恨んでみるのだ。
もちろん世界は不平等だからこそ成り立つのだろう。
こうしてぼくたち日本人が快適に過ごせているのも、ある意味世界にまたがる不平等のおかげだ。 安い賃金の国で作られたモノが先進国にあふれている。 日本ではコンビニのバイトで30分も働けば一食ありつけるけれど、世界の半分以上は一日中必死に働いてもきょう食べるのがやっとというのが現実だ。
そんな飽食・消費大国日本ではあるけれど、人々にメイドやアマさんを雇う習慣はない。 世帯年収が一千万円以上あろうと、香港のように住み込みのメイドを雇うほど落ちぶれてはいない。 この国に7万円で一ヶ月まるごと雇えるアマさんは存在しないし、そもそも雇おうとする発想すら、ない。
それでいいのだと、ぼくは思う。
日本でどんなに格差や不平等が叫ばれようとも「普通の家にメイドがいない」ことは、本質的に自分の上や下に人間がいることを、この国の人たちは好まない証拠だと思う。 経済合理性はこのさい、二の次、三の次なのだ。
たとえば、ぼくたち日本人の祖先は人種差別を本気で撤廃しようとした。 1919年、第一次大戦の戦後処理を行うパリ講和会議では、日本代表がどうどうと「人種差別撤廃条項」を提案している。 そして、11対5で賛成多数であったにもかかわらず、議長のアメリカが反対したため可決しなかった。 またしてもアメリカ、なにが民主主義の国だ、と思う。
フェアであること。
そのことが、ぼくにはとても大事に思えます。
メイドは秋葉原で、じゅうぶんだと。
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