「歴史を問う」
ぼくが初めて公開した個人サイトのタイトルで、開設は1997年。
当時(12年前)の日本のインターネット人口は6~700万人。 現在(2009年4月)はすでに9000万人を超えたというから、13分の1の規模でしかない。 ましてやWEBで情報発信する個人は、今のブロガーの1000分の1にも満たなかったと思う。
そんな時代に、わざわざこんな堅苦しい個人ページを開設しなくてもよさそうなものだ。
でも、自分なりに理由があった。 インターネットメディアに対して、自分なりの期待感がむくむくと生じてきたのだ。
それが、メディア・リテラシーであった。
ブログが生まれるずっと前からぼくは、一般大衆レベルでそれぞれ思うことや意見することを発信していけば、マスコミが主導する世論誘導や既得権益のようなものをぶち壊すことができるんじゃないかと思っていた。 「あれはおかしいんじゃないか?」 と思うのならばそのことをネットに呈し、議論の場を喚起し続けていけば、マスメディアへの監視が一般の人たちよって可能になるのでは?と期待していたのだ。
それにしても「歴史を問う」 のメインコンテンツは、なんとあの 『南京大虐殺』 である。 少しロマンティック過ぎたかもしれない。 ほぼ全ページにわたって、戦争シーンや虐殺シーンの写真が載せられていたし、行間を惜しむくらいの文字がびっしりと並べられていた。
「南京大虐殺があったかなかったか」、というのは、メディア・リテラシーを考える上で格好な題材である。 ぼくはサイト内で、同じシーンを報じた写真や記事を「肯定派」と「否定派」それぞれの視点からフラットに並べてみた。 運営者であるぼくは、あえてどちらの立場をもとらなかった。 つまり、判断はあくまでもサイトを見た人の裁量に任せたのだ。
■ 「日本軍は悪」だと主張する人には不都合な写真
△ 戦死した兵士は敵の中国兵であっても慰霊塔を建て頭を下げる日本兵△ 戦闘が終わった地域で現地の子供たちと遊ぶ日本兵
そのことが功を奏して、両派の意見をそれぞれもらえる機会を得た。 このことをしてぼくは、南京大虐殺の有無そのものより多くのことを学んだような気がする。
- 情報には「偏り」があるということ
- 情報には発信する側に「意図」や「目的」があるということ
- 「真実」とか「絶対」は強調されるほど「ウソ」が多いこと
12年前に比べれば、個人が情報発信できる手段ははるかに容易になった。 かといって、この国のネットユーザーたちの間にメディア・リテラシーが育っているのかどうか、まだぼくにはよくわからない。
偏った情報が疑いなく鵜呑みにされていくさまが、ただ拡大再生産されているだけのような気もするからだ。 それならテレビや新聞だけの時代とたいして変わらない。 ネット・インフルエンサーたちは、その片棒をかつがされているだけじゃないのか、とも思う。
「公に発信できる」ということは、自らがメディアになれるということだ。 マスメディアの一方的な情報発信に偏りを見つけ、意図を見抜き、真偽を判断し、必要ならそれに異議を唱えることができるということだ。
ぼくらはまだ、その能力を出し惜しんではいないだろうか?
必要なものなら、タダでそこにあるのだ。
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