1970年。
ぼくの勝手な想像なのだけど、「イラ写」の読者層の中心はちょうど1970年生まれの人なのではないか、と思っている。
つまり1970年より前に生まれた人と、後に生まれた人の数がほぼ等しいということだ。 根拠はない。 ようするに、ただのカンです。
さて1970年の日本といえば、高度経済成長期で沸きに湧いていた時代。 日本全国が焦土となった戦争が終わって、わずか25年。人口は初めて一億人を突破し、GNPが世界第二位に躍り出るなど、当時の日本は「東洋の奇蹟」などと呼ばれていた。 大卒初任給4万円、かけそば一杯100円だったと聞く。 今よりも貧しく、だのに眩しい。 そんな時代だ。
また、1970年といえばあの大阪万博の年でもある。
太陽の塔があり、エキスポランドがあった。 覚えているだろうか? たぶん読者の半分がこの年までに生まれているはずだ(想像)。
実はこの大阪万博、1940年に東京で開催されるはずだった「日本万国博覧会」が延期されたものだ。 それどころか、もともと日本で最初に万博の開催が予定されたのは1890年。 なんと日清戦争より前の話だ。 その後なんどもなんども「予定されては延期」、の繰り返しであった。
今なら「国民を欺くのもいい加減にしろ!」と、マスコミに叩かれそうだけど、当時の日本人たちはそれでも辛抱強く待ったのだ。
延期の理由は「財源不足」。
当時の日本は、今では想像もつかないほどに国も貧しければ国民も貧しかった。 一部を除いた国民のほとんどがワーキングプアである。 それでも開催にこだわったのは、ほかに娯楽がなかったという理由のほかに、当時万博を開催できるのは「先進国(当時は一等国などと呼ばれていた)」だけであった。 つまり日本は、万博を開催することで、悲願である「先進国の仲間入り」を果たそうとしたのである。
日清、日露戦争に勝利し、第一次大戦も勝国側だった日本。 それでも欧米先進国からすれば、日本人は「東洋のサル」にすぎない。 日本人だけではない。 白人以外はどれも、サルであり家畜扱いだったのだ。 その認識が変わるのは戦後を待つしかなかった。 そんな時代があったのだ。 今とは全く違う誰にも変えられなかった残酷な世界が、ごくあたりまえに横たわっていた。
△ 1940年当時の東京地図【東京市役所 大東京地図 昭和5年】
「40年日本万博」の開催が予定されたのは1929年の大恐慌を過ぎてから。 財源を確保するために、前売りチケットは「宝くじ」方式になっていた。 ただの前売りチケットなら人数分を買っておしまい。 でも、宝くじがついていれば、今と同じ、ひとりが何十枚も買ったっておかしくない。 なるほど。
一等賞金は今の金額に換算しても数百万円程度。 それでも売れに売れで50万枚。 しかもチケットは12枚綴りになっていたから、600万人分売りさばいたということになる。
1940年の日本は、まさに戦争前夜。
いや、すでに中国大陸で日本は中国と戦争の真っ最中だったし、ドイツはヨーロッパ全土で、イタリアは北アフリカでそれぞれ一戦交えていた。 日米関係も最悪で、とても「こんにちは、世界の国から」 などという雰囲気ではなかったのだ。
もちろん万博は中止。 万博会場予定地は、アメリカの爆撃機によってただの焼け野原になってしまった。
前売り600万枚は、文字どおりただの「はずれくじ」となった。
と思いきや、
先述のとおり、大阪万博は1940年の日本万博が延期されたもの。 つまり、前売りチケットはそこでちゃんと使えた。
事実、70年大阪万博では、約3000枚ほどの「40年万博前売りチケット」が使われていたのだそうだ。
30年前の前売りチケット。しかも、大東亜(太平洋)戦争をはさんでのチケットである。 あの戦争では、実に300万人もの日本人が亡くなった。 なかには万博をとても楽しみにしていた人もいたのだろう。
「これをあいつに見せてやりたかった・・・」
そう想いながら入場した人たちもいたはずだ。
なかなか感慨深いのだ。
貧しいが故に延期を我慢し、生まれた時代を選べなかったためにそこに行けなかった多くの日本人の無念さを想う。
「大阪万博博覧会」とはそういうものだったのだ。
▲ 大阪万博のようす(日本人はいつから、こんなふうに笑わなくなったのだろう?)
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