「今年に入って暗いニュースばかりだね」
そんな会話が漏れ聞こえてくる。
そうかな? とぼくは思う。
「暗くないとニュースにならない」
そういうことなんじゃないか?
人は何かしら不満を持って日々暮らしている。 不安や不満を数え始めるとキリがないほどだ。
同じ「お金や仕事がない」という事実を前にして、不安のあまり自殺しちゃう人もいれば、その自由を謳歌する人たちだっている。 ひとそれぞれだ。 同じ現象でも、捉え方によって負にも正にもなる。
ことの本質は、マスコミ報道は「自由を謳歌」している人にはマイクを向けないということだ。 いっぽうでホームレスのひとやデモに参加している人ばかりを取材する。 ガソリンが高騰したときはあれほど報道されていたのに、下がってからは全く報道されないのと同じだ。 「ガソリン代が上がったので生活が苦しいです」という「街の声」はあっても、「ガソリン代が下がって家計が助かっています」という「街の声」は報道されない。
結果、暗いニュースばかりになるのはあたりまえじゃないか。
結局のところ、大衆には不安をあおっておいた方がなにかとコントロールしやすいのだろう。 ヒトラーの演説しかり、9.11同時多発テロしかり、 幸せの壷しかり・・・だ。 政治家や軍産複合体にとって、あるいはセールスマンや新興宗教の勧誘にとって、「大衆の不安」こそは自分たちの目的を果たすのに大いに役立つ。
ぼくがテレビを嫌う理由のひとつはこれだ。
ぼーっと画面を眺めているうちに、どんどん不安がかき立てられる。 するとこんどは、まるでその不安を払拭するかのように「バカ番組」を視てしまう。 ぼくたちは意識して番組を選んでいるように思っているけれど、実のところ選ばせられているのではないか。 自分の頭で考えて発言しているようで、ほんとうは言わされているだけなのではないのか。
これほどまでお笑いタレントばかりがもてはやされる風潮。 株価の低迷や失業者の増大より、このことの方がよっぽどぼくにとっては不安だ。
人はそれぞれ忙しい。
”心”が”亡い”と書いて”忙”とは言いえて妙である。
だからこそ「だれにもコントロールされない」自分の時間をちゃんともちたい。 心を取り戻したい。 テレビを消し、好きな音楽を聴き、好きな人たちと過ごし、好きな本を読み、思うことを書き留めたい。
自分がいかに大変かを語りたい人たちはごまんといる。 それはそれでいいのだけど、気分次第でどんどん悲観的になる人たちでもある。 ぼくはそっち側にはいたくない。 むしろそっち側の人たちから「なおきんは遊んでばかりいる」と思われていたい。
悲観は気分であり、楽観は意思である
「意思のある楽観主義者」
こんな時代だからこそ、ぼくはそうありたいのだ。
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