叔父と戦艦大和

棺の上の軍帽に目がとまる

いまから82年前、ある男がこの世に生まれた。
古い家柄の長男として生まれた宿命として、個人よりも家に重きをおいて育てられた。 以来、時計のように正確な毎日をこつこつと生きることを余儀なくされ、医療技師としての教育を受けた後は、実に79歳に至るまで50年以上休むことなく歯科技師として入れ歯や詰め物などの製作し続けた。 やがて技術の衰えを感じ、3年前に引退した。 その後は趣味の日本刀や古銭のコレクションに没頭し、静かに余生を過ごしていたのだけど、先日腎不全を患い肺炎を併発して静かに息を引き取った。
その男とは、ぼくの叔父のことだ。

子供の頃からぼくは叔父が苦手だった。 自分に厳しく他人に厳しい、昔ながらの人だったからだ。 古い家を継ぐ長男としての責務を全うするには、親族すべてに対し厳しくするしかなかったのであろう。 けれども事情をよく知らない幼少のぼくにとっては、無駄にうるさい存在でしかなかったのだ。

ぼくが高校を卒業するとさっさと広島を出たり、社会人になる際に海外を目指したのは、この叔父への反動があったのかもしれない。 そういった意味で、叔父はぼくの人生に少なからず影響しているといえる。

 

葬儀に参列したぼくは、仏前におかれた叔父の棺桶を見て、「おや?」と思った。
棺の上には、遺影や白い折り鶴に混じって「旧海軍の軍帽」が乗せられていたからだ。 参列者の中には旧海軍の制服を着る老人もちらほら見られた。
1943年、同盟国のイタリアが降伏した直後、叔父は学徒出陣により海軍に入ったのだという。 初耳だった。 ぼくがそのことを知ったのは葬儀のこの日のことだったのだ。 出陣した叔父は海軍に編入後三大軍港のひとつ呉に勤務し、広島湾の巡洋艦で厳しい訓練を受けていた。 訓練後は、あの戦艦大和に乗艦することが決まっていたのだと叔母はいう。

映画 「男たちのYAMATO」 を観に、叔父はひとりで何度も映画館に足を運び、そのたびに真っ赤に腫らした目をして帰ってきたのだという。 映画のストーリーにあるとおり、沖縄特攻へむかう途中大和は鹿児島の西方で米軍機の爆撃にあい、奮戦の上沈められてしまう。 このとき叔父は横須賀へ出張に行っていたために、大和と運命を共にしなかったのだけど、共に猛訓練を受けた多くの若い戦友たちをこの瞬間、失った。
「わしも一緒に死ぬはずだったんじゃ・・」
生前、酔うと叔父はそう叔母に漏らすことがあったのだけど、それは生き残ってホッとしたというよりは、生き残ったことで同期の戦友達に顔向けできないといった罪悪感に満ちていたそうだ。

戦後生き残った多くのおじいちゃん達は、叔父同様そんなふうに戦争を多く語らないまま、生涯を閉じていった。 もしかすると叔父は 「男たちのYAMATO」で、主役の神尾(仲代達也)に自分を重ねてみたのかもしれない。 映画のシーン同様、生き残った神尾は死んでいった戦友たちの生家を訪ねて回ったが、叔父もまた同様だったようだ。 戦後になって大和が沈んでいたことを知った(戦中は秘匿とされていたそうだ)叔父は、帰還後死んでいった戦友の生家を訪ね、手を合わせて回ったのだという。

しかし労苦の果てにようやく帰還した叔父を待っていたのは、原爆によって壊滅させられた広島の街であった。

 

叔父の世代とは、そんな悲しい時代だった。

 

高温のかまどで焼かれた叔父が今は白骨となって目の前に広がる。
戦後は一貫して、こりこりと義歯を作りながら生きてきた叔父。 どこにも旅行に行かず、生涯のほとんどを自宅の作業室の中で過ごした。 それはまるで時計が針を刻むように正確な毎日だったという。
同じ姓を名乗り、お互いにどこか顔の作りが似ているぼくたち遺族は、やがて火葬された叔父の骨を大きな箸でつまみ、骨壺へと落とす。 その骨は水分もほとんどなく、焼かれたというよりは、たったいま出土されたといった感じだった。
小さな骨壺は、いくつかの骨を入れるとすぐにいっぱいになり、入りきらない骨はそのまま台の上に残された。 他の参列者が次々と部屋を出て行くあいだも、しかしぼくはどうしてもその残った白骨から目をそらすことが出来ない。
最後は係員にやんわりと促され、しぶしぶ出て行く始末だった。

それは生きとせ生きる者たちに平等に訪れる、なりの果てだった。

それにしても叔父は生前、心から幸せだったのだろうか? それとも戦友の多くや大和と一緒に運命を共にしたかったのだろうか?

もちろん今となっては知るよしもないけれど、やむを得ないとはいえ死んで愛する人を守るより、生きて守る方が何倍も大変なことだと思う。

本家からの帰り際、叔母から 「叔父の形見」 にとロレックスをいただいた。 耳に当てるとこちこちと針を刻む音がする。 叔父の生前のように規則正しく、そして正確に。
「持ち主がおらんなっても、時計は止まらんのじゃねぇ」
ぼくがそういうと、叔母は堰を切ったように泣き崩れた。 喪主として葬儀も無事に完了させ、いまようやく緊張が解けたのだと思う。

一途に夫を支えてきた女の涙、
あるいは砲弾よりも強いんじゃないかと、そのときふと思った。

11 件のコメント

  • 台の上に残された大部分の遺骨の成れの果ては・・・他の人の骨と一緒にまとめてどこかに埋められるそうです。。。 火葬って衛生的だからってゆう、映画「エリザベスタウン」の中のセリフ思い出してしまいましたが、あちらでは撒きやすいように粉々にしちゃうみたいですがねぇ。。。

  •  誰かに形見をもらって戴くことにより、故人の思い出が紡がれます。
     火葬、土葬、風葬などその種族によって慣習があるようです。これまで、幾つかの葬儀に手伝いや参列して思うことは、ビジネスの片棒かつぎという疑念が拭えません。

    −−−以下、冗長な屁理屈です。御免なさい。
     土地々の習俗・風習、そして葬儀社の方法論に遺族が振り回されている姿を何度となく見てきました。まあ、多忙であれば悲しみも紛らすことはできるでしょうが、多くは遺族を疲れさせるような気がします。健気に未亡人や長男役を演じることを期待しているのでしょうか。
     以前、世界の宗教を調べた経緯と今回の神社HPから学んだこととして、どうも各宗教が複雑に混じっているようです。 黄泉の国から戻った古代の神が川で禊ぎをしたことに準じて帰宅した時に塩を体に振りかけるようですが、塩による禊ぎの記述はありません。仏教では仏、神道では祖先神の一人となるので、穢れではありません。(※自分は塩を用いません。)
     形見の時計はなおきんさんの時を刻むことでしょう。
    前の映画で****コードが話題になりましたが、今は、ユダの福音書のようです。論理的な西洋社会において、未だにキリストを処女懐胎としているのは、現代の生理学、遺伝学を否定するものですが、矛盾を感じないようです。

  • 葬儀無事に終わったみたいで何よりです。
    アタシは覚えてる限りでは通夜や葬儀に参加したことがないので、人が亡くなる、ましてや親族など身内が亡くなるという感覚が残念ながらあまりわかりません。でも、きっと叔父さまはなおきんさんが形見の時計を受け取ってくれたことを嬉しく思ってると思いますよ♪

  • なおきんさん、叔父さまのお話ありがとうございました。
    いろいろ書こうと思って、コメントボタンを押したものの
    胸がキューッとなってうまく言葉が出てこなくて…。
    形見の時計に、人生の重みを感じました。
    叔父さまのご冥福をお祈りします。

  • たまやんさん、一番ゲット、おめでとさまです!
    そうなんですか、他人の骨と一緒にまとめて埋められちゃうんですか・・。 じゃあ、けっきょくのところ墓石の下に埋められるのは、ごく一部なんですね。 つくづく、人間って今ある肉体は天からの借り物なんだなあ、っておもいます。
    ————-
    ターボペンギンさん、いろいろと勉強になりました。 ありがとうございます。 日本人ってともすれば冠婚葬祭が宗教上一貫していないことも多いですね。 幼稚園はカソリックで中学は仏教校、初詣は神社でも結婚式は教会だったり(ちなみにぼくですが・・)。 それにしても葬儀がシステマチックに進行していく様は、正直驚きました。 喪主である未亡人も、ただ係員の指示に従っていたという感じです。 遺骨を拾うときも、「これがのど仏です」、「大腿骨です」と説明を受けたりとか・・・。 遺族なのに、なぜか博物館の来館者といった感じでした。
    ————
    suisuimaoさん、ぼくも同じです。 40数年生きてきても、数回あるかないかです。 もっともしょっちゅうあっては困るんですけどね。 ただ真っ白い遺骨にはいろいろと考えさせられました。 それと、叔母の説明で、あの戦艦大和がぐぐっと身近に感じられました。叔父が生きている間にいろいろと聞いておきたかったもんです。 形見の時計は世代を超えてこれからも時を刻み続けることでしょう。
    ————-
    なほさん、今回は葬儀という非常に個人的且つ重い話題で申し訳なかったです。 ゆるネタを2つ続けたので、バランスをとる意味も含め、今回のお題にしました。 「ある死」を前にして、「生」を考える機会ができたのは幸いでした。 故人が死んでなお人の心に生きる様を「形見の時計」で表現してみました。 読み取ってもらえるとうれしいです。

  • 良いお話なので、又ゆっくり読ませていただきますね。
    特に「形見の時計」には思いがありますから。
    でも、今夜はポチしてお休みなさいです。

  • 子供の頃から何度かお葬式は出てきましたが、子供の頃はお通夜お葬式といっても何が起こっているのかわかりませんでしたのでぽかんとして終わりましたが、成長するにつれ身近な人の死はなんともいえない感じを受けてきたように思います。
    祖父が死んで、20年近く経ち、現在従弟たちが祖父の靴をはいて会社に通っています。
    祖母はそれが嬉しいみたいです。
    形見が毎日使われているのっていいものだなぁと思いました。

  • 伯父様、ご愁傷様でした。
    慶事には招待された人だけが集まるけど、人とのお別れには思いがけない人と会えたりする。
    出会いよりも別れに重きを置く日本人らしい、このおくり方はアタシは好きです。
    (ちょっと違うけど、歓迎会はやらなくても送別会はする)

    伯父様のような生き方をされた(されている)戦争経験者って多いと思います。
    最後まで何も語らずに亡くなっていく方。
    語弊があるかもだけど、こういう話は好きです。
    両親は疎開経験者だし、アタシのまわりにはまだまだ戦争体験者がいるからかもしれない。
    読み書きも知らず、わだつみの声どころか、家族への遺書を書くことも日記をつけることも出来なかった大勢の庶民。昨日まで大根を売ってた人がいきなり算盤から武器です。
    あの頃のエリート学徒出陣した人たちの書き残したものを読むたびに、書けなかった人たちももっと大勢いたんだろうと胸が痛みます。
    どんな理由もいらない、戦争は言語道断です。
    そのためにはやっぱり基本は「教育」だと思う。

    って、また話しがそれた!

  • Dorothyさん、どうぞどうぞ、あとでゆっくりご覧ください。 「形見の時計」、おじいさんでしたっけ? ちゃんと覚えてますよ。 以前教えてくれたことがありましたね。
    ————-
    ayam47さん、「身近な人の死」は大変つらいことですね。 おじいさまの従弟さんたちは靴が形見だったんですね。 この世に未練なく天命をまっとうするにしても、死者にとってはやはり残せるものが欲しいもの。 あちらには何も持って行けるものがないですからね。
    ————-
    tomomiちゃん、お、めずらしくシリアスなコメントをどうもありがとう! 「別れは出会いの始まり」、そういう意味でも今回の葬儀では実に懐かしい人や、初めて会う甥や姪たちの姿があったなあ。 戦争体験者がひとり、またひとりと去る中で、語り継がれるはずの物語に口を閉ざすじっちゃまに、もっと耳を傾けるべきだね。 叔父は大和特攻に参加する予定だったし、母方の祖父は呉やトラック島で大和の砲弾を割り当てる経理をしていたりと、意外と「戦艦大和」が親族に関わってたんだなあ、と。tomomiちゃん、たしか大和ミュージアムに行ったよね?

  • >死んで愛する人を守るより、生きて守る方が何倍も大変なことだと思う。
    <この一言に尽きます。
    時計大切にしてくださいね。

  • Dorothyさん、戦争はつくづくあってはならないことですが、特攻隊員の遺書など読んでいると、つい死を美化してしまいそうになります。 でも、やっぱり生きて愛する人を守りたいですね。 時計、大事にします。

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    なおきんプロフィール:最初の職場はドイツ。社会人歴の半分を国外で過ごし、日本でサラリーマンを経験。今はフリーの立場でさまざまなビジネスにトライ中。ドイツの永久ビザを持ち、合間を見てはひとり旅にふらっとでるスナフキン的性格を持つ。1995年に初めてホームページを立ち上げ、ブログ歴は10年。時間と場所にとらわれないライフスタイルを めざす。