昨日・今日と、2日間にわたって香港からの出張者のアテンド。
香港人、マレーシア人、中国人、韓国人といった顔ぶれを迎え、日本側の素材メーカー数社との打ち合わせに参加する。 とはいっても、全く専門外のビジネスということもあってか、通訳に、三者間調整にと、個人的にいろいろと苦労することになった。 専門外のビジネスであり、しかもぼくたちの会社は商流には全くからまないので、まったく採算度外視のアテンドでもある。 利益どころか、新幹線等の交通費や各種経費はすべて自腹という有様だった。
とはいっても手は抜けない。 香港のパートナー会社からの頼みをいったん引き受けた以上、出来るだけのことはしなくちゃならない。 ていうか、してあげたい。
さて、そんな彼らと日本メーカーの社長さんたちとの懇親会。 話題はあちこちに飛び、ぼくは通訳に追われ、目の前の料理には全く手がつけられない。 ビジネス一辺倒だった話題は、「日本のアジア貢献」へと移り、ついには「歴史問題」、そして「反日問題」へとめまぐるしく変わる。 何しろメンツがメンツだ。 各人、はじめは腫れ物に触るように用心をしながらも、杯を重ねる毎に饒舌になりエキサイトしていく。 この時の話題は実に興味深いのだけど、長くなるのでここでは省く。 意外なことに韓国人が日本を擁護する発言があったり、マレーシア人が今の日本を嘆き、年配の日本人が過去の日本の過ちの詳細を語る一面もあった。
ぼくたちはそれぞれに固有名詞(つまり名前ですね)を持ち、性格を持つ。 様々な性癖があり、家族があり、それらを育成してきた環境がある。 これに加え、相手が互いに同国人であれば深く考慮することもない「ナショナリティ」という属性を、外国人相手に会話をすれば自然と意識することになる。
人は「自分が何者か?」と自問するとき、まず相手との違いを明確にしたいと思うものだ。
ぼくは社会人になってから結果的に18年近くを海外で過ごした。 「自分が世界に通用する人間なのかどうかを試してみたい」という崇高な志が必ずしもあったわけではないけれど、今回のような話題になれば、ある意味「日本人代表」のような意見を述べなくちゃならない。 過去、そんなシーンに何度も出くわした。 自分の放つ意見は主観なのか、客観なのか、史実なのか、希望的観測なのか? 彼らは「ぼく個人」に意見を求めながらも、常にその背景にある「普遍的な日本人」をも観察している。 このあたりは、海外在住経験を持つ方や、外国人と接する機会の多い方であれば、ピンとくると思う。
それはすなわち、「下手なことは言えない」ということだ。
話は変わって、「日本代表野球世界一」。
特にぼくが興味深かったのはイチロー。 普段は「寡黙なクールガイ」といったイメージのイチローが、なぜあれほど子どものようにはしゃぎ、怒り、エモーショナルな行動や言動を見せたのか? 世界の誰もが認める野球プレーヤーのひとりであるイチローを思えばちょっと意外だったかもしれない。 けれども彼自身は、自分ひとりがグレイトなのではなく、「日本の野球レベルそのもの」がグレイトなんだ、ということをこの機会に実証してみせたかったのではないか? とぼくは思う。
大リーガーのイチローのように、日本を離れ外国人に囲まれた生活をしていると、自分の属性である日本を強く意識するようになる。 相手が外国人だとつい背負ってしまう日本がある。
それはいったい何だろう?
と、ぼくはことある毎に思う。
自分と同じような人たちと群れてばかりいては、決して見えない何かがある。 だから、居心地のよさに長居したくなる欲望を抑え、異質なものの中に常に身を投じたいと思う。
知恵と 勇気と 好奇心
これがなければ生きていてもつまんない。
つくづく落ち着きのない人生だとは思うけどね。
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