家にパソコンがあるんだけど、何もすることがない。
デジカメを買ったのはいいけれど、最近は使っていない。
インターネットもひととおり見たら、飽きちゃった。
数年前まで、ぼくのまわりにはこんな人たちが少なからずいた。 うっすらとホコリのかぶるパソコンや、充電されることのなくなったデジカメ。 それらはけっして安くはなかっただろうし、買う前や直後ではそれなりに夢や希望もあったはずだ。 野望すらあったかもしれない。 それが週末ドライバーよろしく、パソコンを使うのはせいぜいメールかネットサーフィン(死語か?)、あるいはゲームをちょこっと程度。 「ウイルスに感染するから」と、ネットにすらつなげない人たちもいた。
それがいま、このひとたちはブロガーになっていたりする。
毎日パソコンに向かい、デジカメはフル稼働。 安価になったブロードバンドに乗り換え、買ったパソコンにバンドルされていたことすら気づかなかった「画像編集ソフトやビデオ編集ソフト」も、いまではすっかり使いこなす知人も多い。
日本のブロガーはついに500万人を超え、年内には700万人に達するという。 人口3億人の米国では2000万人もいるそうだから、現実的な数字にちがいない。
文章、写真、イラスト、音声、音楽、映像 ・・・ 自宅に設置されたパソコンを駆使して、日本だけでも何百万もの人たちが連日こういった表現作品を生み出している。 知らず知らずのうちにパソコンを使いこなしている人たちだ。 「ブログを更新」していくうちに身に付いた知識や能力は、けっこう無視できないものがある。
「ブログ見たよ、あんたもタイヘンねえ・・」
「ちょっとォ〜! これってブログに書くんでしょ?」
「詳しいことは、ブログを見てよね」
などという会話はもう、当たり前のように街中から聞こえてくる。レストランなどで、誰かしらデジカメで料理の写真を撮っている姿も日常光景となった。
いっぽう、いまなおブログに懐疑的なひとたちは、
「自分の日記なんか公開して何が楽しいんだ?」
なんてことをいう。 わかってないな、この人たちは。 ブログはけっして「公開日記」なんかじゃない。 強いていえば、「公開メール」に近いんじゃないかと思う。 特定の人だけに向けられたメッセージが「メール」ならば、不特定多数に向けられたメッセージが「ブログ」というわけです。
これを定期的に続けていると、リテラシー(表現能力)というのは確実に上達する。 スポーツだって勉強だって、くりかえしくりかえし反復することで実力が上げるもんだから。
暗いニュースばかりの日本やそれを取り巻く国際社会だけど、ことブログにおいてはなんだか希望がもてそう。 だって、 「ブロガーが激増している」ということは、それに伴ってリテラシーも上がるのでは?という期待が持てちゃうからです。
いわば、ブログによる社会のボトムアップ(底上げ)ですね。
例えば、これまでTVや雑誌で発信されるニュースを、「ふーん、そうなんだ・・」と、これまでほじった鼻くそをとばしながら見ていた人たちが、「いやまてよ、本当にそうなのか?」と思うが先に、同じ話題を他のブログに探してみたり、自分のブログにそのことを書いてみたりする。 マスコミという既存メディアが垂れ流す情報を、こうして「疑ってみる」ということはつまり、ひとつの事象を多面的に見たり、自分の頭で考えてみることにつながるものです。
ブロガーたちは、知らず知らずにこうして「にわか料理記者」となり、「にわかエッセイスト」となり、「にわかイラストレーター」となり、「にわか小説家」となる。 いままで誰の目にもとまらなかった文章や写真やイラストは、多くの人の目に触れることで確実に向上すると思う。 そこに発生する「共鳴」や「連鎖」は自己満足という枠にその人を留めることをしないから。
女性だって大勢に見られることで「美人」になる。
ブログを更新することを目的に、自然とパソコンを使いこなせちゃってる人たちがいるように、これを活用していくうちに情報を見る目が養われ、自分でも「表現作品」への参加意欲が高まる。
「自分もなんかやってみようかな?」
と思わせる何かがブログには充満しているんでしょうね、きっと。
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