この日は大阪に出張。
そこで、新宿から東京駅へと向かう中央線の車内の出来事でした。
四谷から、60くらいのおばあさんが乗ってきた。
車内はやんわりと混んでいて、立っている人もちらほら。 ぼくはドア付近に立っていて、おばあさんはぼくの斜め前、ちょうど若い白人男性が座っている正面に立つようなカタチになった。 普通ならその白人がここでおばあさんに席を譲る場面だろう。
しかし彼はそれを無視・・・どころか、隣の座席にはリュックがどかっとおかれている。 つまり席を二人分占有しているというわけだ。
あり得ない・・・。
まわりの乗客は何も言わない。 おばあさんは辛そうに目の前に立っているだけだ。 たぶん相手がガイジンだからかもしれない。 ガイジンだってこの頃は日本をしゃべれる人も多い。 ぼくは、試しに日本語で話しかけてみる。
「そのリュック、下におろしておばあさんに席を譲ってあげてはいかがですか?」
ガイジンはじろっとこちらを見て、それから肩をすくめる。
日本語がわからないらしい。 それにしてもすごみのある目つきだ。 ジャンキーか?
しかたなく英語で同じことを言ってみる。
彼は視線を元に戻し、手元のガイドブックに目をやるだけであいかわらず無視を決め込む。 しかし、小さく毒づくように口が動くのをぼくは見逃さなかった。
「・・ヴァイス ニヒト (知るかよ)」
ドイツ語だった。
その瞬間、ぼくの中で何かが切れた・・・
「ヴァイス ニヒト」、ドイツ在住時代ぼくはこの言葉に何度も何度も苦汁をなめさせられた経験がある。 店先の店員に、会社の同僚に、外人局の係員に、オマワリに・・・
このガキ・・・
ぼくは小さくうなってから、軽い深呼吸をひとつ。 そして彼を見下ろしながら、もう一度いう。
「オマエが立つか、荷物をどけるかして、この婦人に席を譲りなさい!」
こんどはドイツ語。 久しぶりのドイツ語。 しかも、二人称は”sie (ジー:あなた)”ではなく、”du(ドゥー:おまえ)”を使った。 もう、いちかばちかだ。
不思議そうな顔をして、男はじっとぼくを見ている。 (うっとうしいヤツだな)と思っているんだろうか? それとも、(なんでドイツ語を喋るんだろう?)などと思っているのか・・?
しばらく沈黙が続いたあと、ようやく
「このご婦人が・・」 と彼の口が開く。バリトンの効いた低い声・・・
「席を代われと言ったのか?」
ぼくでも聞き取れる標準ドイツ語。 北ドイツ? ならば彼はプロテスタントか? まわりの乗客の視線を感じる。 イヤだなあ、と思う。
「立つか、その荷物をおろしなさい」
男の質問には答えず、ぼくはそうくり返し、少し口角を上げてみる。 相手に敵意を感じさせたくないからだ。 事実、本当にジャンキーだとすればやっかいなことになる。 大阪行きの新幹線に間に合わなくなる。
男は、やれやれといった感じで隣に置いたリュックの肩掛けに手をやり、立ち上がりながら勢いよくそれを持ち上げる。
どきっ! それにしてもでかい!
身長はゆうに190cmを超えていそうだ。
とそのときアナウンスと共に電車が停まった。 停車駅の、お茶の水に到着したからだ。 コンプレッサーの音と共にドアが開く。 男はこちらを一瞥もせずにドアへと向かい、そのままホームへ降りてしまった・・・。
あれ (・・?))
「譲るため」じゃなく、「降りるため」に立ったのか・・?
なんとなくばつの悪さを感じながら、ぼくはおばあさんのほうへ視線を移す。 席についてもらえればそれでいいじゃないか、と。 とにかく席が空いて、おばあさんが座れれば・・・
あれ (・・?))
こんどは、おばあさんがいない!
少しあわてておばあさんの行方を追う。 まさか・・・?
案の定、車内へとなだれ込む人々の向こうに、ホームに降りた他の大勢に混じって、あのおばあさんの後ろ姿を発見!
降りちゃったのかよ!
発車チャイムを残し、アナウンスと共にドアが閉まる。 空気が入れ替わったように人も入れ替わる。 唖然とホームのほうに向けていた顔を戻す。
さっきまでドイツ人男が座っていた席には、すでに別の人が座っていた。
ああ、善意の空回り・・・
ガタンゴトン・・
ガタンゴトン・・
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